著名人の愛したさなづら
昭和の国民的歌手 東海林太郎
「秋田はいい。女はいいし、山海の幸は豊富でうまいものがたくさんある」と口癖のように言っていたという東海林太郎。酒も大好きなわりには甘いものも好きだったと語るのは、お菓子の店榮太楼で長年支配人だった藤田英一さんが話してくれた。
昭和38年2月、大町にある榮太楼の向かいにクラブニュータイガーがオープン。こけら落としで太郎は「赤城の子守歌」を歌った。よく舞台の合間にフランク永井、小林旭らと榮太楼の喫茶室でコーヒーを飲んでいたという。
太郎は常宿にしていたニューグランドホテルに着くなり、藤田に電話を入れ「さなづらを届けて欲しい」と催促していた。昭和30年代後半、日本が高度成長期に向けて動き出す頃、お菓子といえば饅頭、せんべいの流れからおしゃれで上品なお菓子としてゼリー系統の人気が高まっていた。さなづらは秋田の方言で山ぶどうのことをいう。このさなづらを濃縮ジュースにし、ねっとりとゼリー状に固めて作り上げたその甘酸っぱさが気に入っていたようだ。
太郎にはこんなエピソードもある。舞台が終わると必ず飲みに行くのが習慣になっていたある日、誰かが「先生はいつ見ても、ナンも変わってねな」といったら、「そんなことはない。ぼくは、昨日より今日、今日より明日とうまく歌うように努力しているよ」とまじめな顔で話す太郎に、みんなは大笑いしたという。
34歳という遅すぎるデビューではあったが、幼い頃から持ち続けた音楽への夢と数々のヒット曲を生み出すなかで、自分の歌の原点はふるさと秋田だと話していたという。
どこに行っても、秋田ブランドを愛し続けていた太郎の「秋田はいいよ」という言葉が忘れられないと藤田は語った。
〜「文化人が愛した秋田の食」より一部抜粋〜
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・・・などエピソードを紹介していきます。
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